本格的に阿部さんにとって人生の柱がバスケになったのはどの辺りからですか?
中学入った時は、高校くらいまではやりたいなと思ってた。
高校入った時には、大学でやろうとかその先どうかというのは全然なかった。
高校入った時はインターハイに一回は出たいなとか、あとは地元の東北大学に進んで、浪人は避けたいなとか、そういう目標だった。
高校で一回今でいうウィンターカップに、宮城の2位、東北の2位になり、全国行ってベスト4まで行けた。
あれ?ちょっとバスケ続けられんじゃねえの?みたいな感触があった。
自分のプレーもよかったし、それをきっかけに大学から誘われるようになった。
せっかく誘ってもらえるんだし、大学でもやるのはどうかなというのをそのとき考え出した。
大学で2年生のときにキャンプで教わるようになったインマンさんっていう方がいて、合宿終わりのときに一人ひとりアドバイスをくれる。
そのときに、本気でやったらナショナルチームの選手になれるからがんばってやってみろ、みたいなことを言ってくれた。
NBAでスカウトやるような目利きにそういうんだから俺にはそのポテンシャルがあるに違いないと思って、この人の言ってることを信じて本気でやってみようと思った。
それまでも本気ではあったけどそこでスイッチが入った。バスケに賭けてみよう。
それが二十歳になるちょっと前くらいかな。インマンさんとの出会いが大きかった。
最初から山の頂を見ていたというよりは、ここまで登ったらもうちょっと上れるのかな、もうちょっと上れるのかな、という感じで一歩ずつ目標を高くしていったみたいな感じだった。
進んでいく中で順風満帆でしたか? それとも大きい課題に出会いましたか?
大きく言えば順調に行った方だと思う。
怪我もあったし、その時その時でクリアしなきゃいけないことはあったが、NBAに行くと決めて日本のものを全部かなぐり捨ててアメリカ行ってからの何年間を考えれば、そこまでの障害ではなかった。
当時は大変だったけど、恵まれた仲間と恵まれた時間を過ごせた方じゃないかな。
当時はコンプレックスというかバスケのエリートの連中と同じ土俵でやれるようになるのか?というのがずっとあった。
日の丸背負えるようになるから頑張れと言われても、俺よりうまい選手、同期でもそのカテゴリーで日の丸を背負ってるやつがいっぱいいたから。
追い越せるのか、その中でどうやって目指していけるのかなというのは常にあった。
大学生のときは認められるまではその気持ちが強かった。
そのたびにインマンさんの言葉を思い出して、心が折れるとき、全部ボキッじゃなくてもポキみたいな。
そういうのを繰り返して、よれっとなってはぴしっと頑張って、を繰り返すと思うんだけど。
よれっとなったときはインマンさんの一言。そのときはすごくうれしかったけどここ何年かの自分だと、ああそっか日本代表にはなれるけど、NBAに行けるポテンシャルじゃないんだ、という判断をしたかもしれないけど、そのときは大きな言葉だった。
バーンアウト症候群、燃え尽き症候群とかもかかったりした。
その時は2週間くらい田舎に帰って静養しなきゃいけなかった。他何か月かプレーできないときもあった。
でも若かったから 身体もレスポンスしてくれたから。そういうのを一つひとつクリアしてこれた。
そこから実際日本代表になって、その頃にはNBAにチャレンジしようと思われていたんですか?
頭の片隅にはあったのよ。
大学入ったときも途中で休学とか退学して向こうの大学行くのはどうなのかなというのはあったのよね。
俺結構アメリカ志向が強かったから、その時。本場のアメリカのバスケずっと見てきてたから。日本とレベルも全然違うし。
行ったら潰れちゃうかもしれないけど行ったらどうなのかなっていうところはすごいやっぱり、頭の片隅にはずっとあったけど、頭の真ん中には持ってこれなかったかな。
ちょっと怖いというのもあったし。
冷静な目で見れば、自分の実力を客観的に見れてた部分もあると思うんだよね。
まともに行ってもそこまで認めさせるほどみんなより飛びぬけた存在かといったらそんなことはねえなとか。そういうところ、いろんな葛藤があって。どっちかというと。
今は、今はというかNBA行こうと決めたときは、できるできないで判断するんじゃなくて、やりたいかやりたくないかで判断するという方向でずっと動いてたけど、当時はそこまで振り切れてなかったんだよね。
なので、うん、そうだね。
インマンさんが社会人2年目のときにダラスマーベリックスっていうNBAのチームのトライアウトをセッティングしてくれたわけ。
それってさ、今考えるとめちゃくちゃレアなケースなのよ。いきなりNBAの人たちに見てもらえる機会はそうそう作れないのよ。自分が十何年もその後やってきて、すごいその機会がいかにレアケースかわかった。
そのときは自信もなかったし、日本代表の活動もそのときまだあってさ。
そのときはインマンさんの話じゃなくて、どっちか選ばなきゃいけなかったからね。日本代表の活動を選んでアジア大会とかそのとき出てたんだけど。
振り返ると、あのときこうしとけばよかったなって思うことって人生の中やっぱりあるじゃん、何個かさ。そのうちの一つかな、それは。
あのとき踏み込んでいたらどうなったのか?
まあそのままNBAに行けたかどうかはわからないけど、NBAに行くためにはこれ必要だなあれ必要だなってやっぱり肌感覚でわかるものって絶対あるじゃん。なんでそのとき行くって言えなかったのかなっていう風には、当時の自分がどうだったのって振り返るときはあるよね。
まあだから怖かったというか、ある意味常識の範囲内というか、それも大事なんだけど、そんな枠の中でまだジャッジをしたり選択したりとか、まだそういう時期だったのかなとは振り返ると思うよね。
実際チャレンジするのは、その時からどれくらい後だったんですか?
チャンスは社会人2年目のときだったんだけど。5年目まではずっと日の丸の活動があって。夏の間ジャパンの活動をして、秋冬は所属チームの実業団の活動をしてって、一年休みなしでずっと回ってたのね。
6年目のときに、ずっとだから、日の丸・実業団・日の丸・実業団ていうのを繰り返してたんだけど、日の丸の活動を途中でカットされたの。怪我があんまり良くなくて。
5年目のシーズン終わって2回目の手術して、そのときちょうど世界選手権があったんだけど、メンバーに選ばれなかったのよ。12人に。
それで途中でその活動が終わって、翌年にはもう日の丸には呼ばれなくて。自分で動ける時期がちょっとできてさ。
6年目はコンディション整えるだけで終わって、7年目のときにアメリカのNBAじゃないんだけどUSBLという独立リーグがあって、その当時はUSBLとかABAとかCBAとか、NBAがトップにあるんだけどいろんな地域にいろんな独立リーグがあって、そこから良いプレイヤーを上にこう、引き上げられるみたいな、そういうリーグがあったんだけど、USBLって300人くらいそこからNBAに行った選手が出たんだけど、歴史上ね。
そこのリーグで、日本人でプレーしたいと思ってる人を探してるチームがあるんだけどどうだという話があって。じゃあ日の丸の活動もないし、ちょっとそれ参加してみたいなと思ってさ。
そのときの春、夏の一カ月半くらい、ニューハンプシャーっていうアメリカの北東部のほうに拠点を持ってるチームがあって、そこで一カ月半くらいプレーしてきて、自分の感触良くて、その後はチームメートが主催してたロサンゼルスのサマーリーグに参加したりして。
日の丸に必要ないって言われて、じゃあやっぱり本当に自分がやりたいことの方に向かったらどうなのかな、っていうのをそのときにすごい思って活動してた時だったね。
だから7年目だから29くらいになる時かな。流れ的にはそんな感じ。
そうすると、実質NBAにチャレンジしていたのは29歳から46歳までですか?
でも29のときはまだ所属チームがあったからね。
オフシーズンの間に武者修行みたいな形でアメリカに行って、所属チームでプレーしてっていう。
まあでも次の年とかはもうアメリカ行けないくらいの膝とか痛みとか出てきちゃって。アメリカ行けなかったからね。そのときに感触良かったんだけど。あとは日本のチームでやるのが精いっぱいみたいな感じの状況が何年か続いちゃって。
10年プレーしたんだよね、日本のチームで。それでなんか、11年目にプレーするときに、まあ一年更新だからさ、俺らの契約って、当時はね。複数年じゃなくて一年契約だったから。
11年目のシーズンを迎えるときにいつも通りサインしてまた一年頑張ろうって、初心にかえって毎回繰り返すわけじゃん。
その時に、なんかあんま嬉しくなかったんだよね。11年目もやろうって決めたときに、あれ?なんかおかしい、なんか違うなと思って。
なんかずっともやもやした感じでシーズンを過ごしていまい。全然気持ちも上がらなくて。なんでかな、どうなのかな、ってずっとあったんだけど。
その一年間、モヤモヤした中で過ごして、ああなんか俺もうちょっと日本でやり切ったって思ってるな、って感じたんだよね。
なんか特に証明したいこととか、そういうんじゃなくて、なんかもうやり切ってるんだなと思ってさ。なんかそれがすごいわかって。その一年のモヤモヤで。
それでもうこんな年になって、じゃあそれが引退のサインか?とも考えたんだけど、なんかすごい自問自答したときに、ああやっぱりNBAで最後プレーしたいんだなっていう自分がムクムク出てきてるっていうか。
今までなんかこう、頭の片隅にずっと置いてたけどなかなか真ん中に持ってこれない目標が、やっぱり本当に自分のやりたいことなんだなっていうのが。前からわかってたんだけど、そこでちゃんと自分に正直になれて。
やっぱりここでちょっとやり切らないと後悔しそうだなと思って。次の年は自分からチーム辞めるって言って、でアメリカ行こうって決めてっていう感じかな。
その頃は阿部さん以外に日本の選手でNBAにチャレンジする人はいましたか?
ちょうど田臥選手の頃よ、だから。
トヨタ自動車で俺最後3年間プレーしたんだけど、9年目10年目11年目か。社会人になってから。
10年目のときに、田臥が一年だけプレーしたことがあってさ、トヨタ自動車で、当時。
そのとき一緒にやって、俺が11年目でモヤモヤしてて、どうかなーああかなーなんて言いながら日本に残ってるときに彼はアメリカに行くって言って、もうアメリカに行ったのよね。ちょうどそんな時期。
実際チャレンジしてみて、日本との違いはどういったところで感じましたか?
まずコートに立つまでの準備がすごい大変なのよね。やっぱり自分でやっていこうと思うと。
お金の面でもそうだし、あと自分でコーチ探さなきゃいけないとか、練習場所探さなきゃいけないとか。あと渡航先で宿泊先どうするのとか。そういうの全部一人でやらなきゃいけない。
要するにバスケをする環境をつくるのにすごいエネルギーと時間がかかるなあっていうのは思ったかな。
どれだけ恵まれた環境で、まだね、実業団とかでやってるときは仕事をしてるやつは仕事しなきゃいけない、仕事して、でもまあバスケする環境はある程度整ってるわけじゃない。
俺なんか午前中トレーニングして、午後はチームの練習出てその後身体調整してみたいなさ。
そういう選手として良くなるためのルーティーンを繰り返せる環境がある程度できてるわけじゃん。だけどその環境自体を自分で作っていかなきゃいけないっていうのがすごい大変だったよね。まずは。
あとやっぱり怪我もあったから、その怪我をうまくこうなだめすかしながらやったりとか。
その怪我のせいでやってやろうという気持ちはあるんだけどやっぱりコートに立てない時期とかも結構あったりして。気持ちはあるんだけど身体がついてこないっていう。
そういうのもすごい違った意味のモヤモヤっていうか。そういうのもすごい長い期間味わったかな。
ずっと向こうにいたわけではなく、向こうにいたり帰ってきたりという生活だったんですか?
そう、なんでかっていうと、まず、ビザの問題があるじゃない。
最初アメリカに少しでも長くいたほうがいいなと思ってたから、studentビザを取ってさ、語学学校に通いながら向こうに滞在したときとかもあったのよ。
それで最初のころはそうだったかな。最初の1年半か2年くらい。
でもそれでずっと頑張ってたんだけど、結局身体がもうレスポンスしてくれなくなって、コートに立てないような状況が続いて、これでアメリカにいてもちょっと埒が明かないなと思って一度日本に戻ってきて。
一番真剣に引退を考えなきゃいけないときだったよね、そのときはね。
だけど気持ちはあるからなんとかプレーを続けたいなと思っていろんなドクターのとこ回ったんだけど、結局もう晩年の典型的な関節の摩耗の状態で、もういい潮時じゃないかっていう、引退勧告ばっかりだったんだよ。どこの先生回っても。
そんな中で奇跡的な出会いというか、恩師の人に会うことができて。
その京子センセイだけ。まあ先生じゃない、ヒーラーなんだけど。リーディングヒーラーの先生で。
まあ西洋医学の免状持ってるとか、そういう先生じゃない先生なんだけど。まあでも最後、ガンで見捨てられた患者さんとかが、最後わらを掴む思いで行き着くような、要するに医療を越えた医療をできる先生なんだよね。
その先生だけが、あなたよりひどい人を私これまでも見てきてますって。なんとかなると思いますって、その先生だけ、俺のほしい答え言ってくれたのよ、当時。
やりたいけどみんなやめたほうがいいんじゃないって医学的にはそういう状況だったんだけど、その先生だけなんとかなるって言ってくれたから。ああもう俺、今の状況だったらこの先生の言うこと信じてやるしかないなって思って。一年毎日通ったのよ。その先生んとこ。日本に戻ってきてから。
それがまた奇跡的に通えるような状況だったのよね。それでいろんなめぐりあわせがあってさ。
日本に帰ってきたときにもう全部引き払ってアメリカに渡ったからさ、今までの地位も名誉もサラリーも全部かなぐり捨ててアメリカに行って、戻ってくるからもう何もない状況で日本に戻ってきたわけよ、その時って。
あの当時、ちょっとお世話になってた人が、田舎に帰ると、もうたぶん気持ちは全部折れて終わるなと思ったからどうしても帰りたくなかったのよ。
なんとか東京いれないかなと思ってて、吉祥寺で接骨院を開業してる森さんて人がいるんだけど、あそこだったら日中は接骨院として開業してるけど、夜は営業してないわけじゃん。
だから朝、営業前に出ていくので、夜だけそこで寝泊りさせてくれないかって、すごい無茶なオーダーをしたのね。森さんに。まあ吉祥寺って東京のいい場所なのよ、そこで店開いてるからさ。開いてたんだけど、まあちょっとそれくらいしかアイディアがなくて。
それで頼んだらその森さんって人が、ちょうど店を大きくしたところで。昔はあのライオンズマンションの、6畳くらいのちょっとしたちっちゃい部屋で、粛々と開業してたんだけど、そのとき、そっちの部屋をキープ、売るために売りに出すためにキープしといて、大きい方を別に借りて、接骨院治療してたの。
だから今まで使ってたところを、使っていいよって、めちゃめちゃありがたい申し出があって。
それが吉祥寺の駅ビルとつながってるような、超リッチな場所にあるライオンズマンション。まあ部屋はちっちゃかったけどね、とりあえず寝泊りはできるじゃん。そこ貸してくれて、とりあえずホームレスならなくて済むなって。うまく東京に戻ろうと思って。
その中でいろいろ先生、ドクターめぐりをしてるときにその京子センセイに会ったんだけど、その先生が実は、最寄りの駅が吉祥寺のところで、オフィス構えてた先生だったの。
だからもう毎日歩いて通ってたわけよ。それでそんな感じで治療。だからもう飯も食わしてもらってたな、先生に。もう毎日治療。昼飯食って晩飯戻してもらって帰ってきたりとかして。毎日治療したりとかしてたから。
その間にその先生からアドバイスあって、ずっと抱えてた、怪我だけじゃなくて、脳腫瘍の手術、したほうがいいって言われて。一回入院して手術もしたりとかしてたんだけど。
その繰り返し、一年くらい繰り返してまたなんとかコート立てるような準備整ってさ。またアメリカに行けることまでできたんだよね。その先生のおかげで。
その先生は結局、自分の息子さんを、いじめが原因で亡くされて、っていうすごい壮絶な過去を背負ってる先生だっていうのは後から知ってさ。うん。
俺はだから京子センセイに命つないでもらったと思ってるから。
そのご長男の人、だから先生ってお母さんの立場としてね。息子を亡くされたから、なんかいじめのない平和な世界になったらいいっていうことで今、日々活動されてる方だから。
そこに自分の第二の人生っていうと大袈裟かもしれないけど、命つないでもらったからさ。
自分のつないでもらった命、世の中がもっと良くなるためにっていうことで使えたらいいなって思うきっかけになったよね。
経世済民っていう言葉よくリー先生も使ってるけど、なんかそういう生き方ができたらいいなというのはすごい考えさせられる出会いでもあったけど。
だから最大の引退の危機はそれで回避できたんだよね。その先生のおかげで。
それでまたアメリカに行ってっていう感じだったかな。2007年の夏に、もう一回渡米したの。でもその時はstudentビザなかったから。
学校に通う、学校に行きながらっていうお金もなかったし余裕もなかったから。あとはもうビザがないからね。3か月までしかいれないのよ、ビザなし渡航って。
パスポートだけ持っていくと。90日以内に帰国しなきゃいけないじゃん。だから、もう88日くらいアメリカにいて、日本に戻ってきて、日本で4~5日滞在して、またアメリカに行ってみたいな。そういうギリギリの感じかな、そこまでは。
でもビザなし渡航ってやっぱり向こうも、なんのためにそんなにアメリカに来てんだって、だんだんやっぱり怪しまれるんだよね。
旅行で来るならそんなにないわけじゃん。ビジネスで来るならビジネス用のビザもあるし、駐在員としているならそのためのビザってあるじゃない。
でも俺がまだそのとき所属先もないし、一匹狼みたいな感じで動かなきゃいけなかったから。アメリカにスポンサーがいるわけでもなし。
だからもうともかく独力で動くにはどうしたらいいかっていうところで、もう細い糸をつないでつないでみたいな感じなやり方だったから、そういうやり方しかなくてさ。ずっと続けてて。
だから午前中トレーニングして午後トレーニングして、夜レストランで、皿洗いとかウェイターのバイトしてみたいな、そんな毎日だったからその頃って。
もう、身体ほら、ちゃんとトレーニングした後レストランでずっと立ち仕事ってもうめちゃくちゃキツくてさ。脚がもう棒になんのよ、ほんと。もう動けねえよっていうとこまでやっぱなるのよね。
次の日の飯を持たしてくれるわけ。まかないみたいな感じで。だけどもう帰りも腹減りすぎて帰りの車の中で食っちゃってさ。次の日の持たしてくれてるのに、もうエネルギーがなくなっちゃって。
それでコンビニに寄って、日本のハーゲンダッツってこんなちっちゃい可愛いのあるじゃん。150ミリくらいしかない一口で食べ終わっちゃうようなやつじゃない、おしゃれなさ。
あれのファミリーサイズっていうのがあってさ、アメリカに。1リットルくらいのこんなのがあるわけ。でもそれをコンビニに駆け込んで買って、それをぐわーって全部食って、帰るみたいな。それくらい毎日なんか出し切るみたいな生活だったんだよね。
いやこんな生活続けててNBA近づけるのかな、近づいてるのかなって、なんかそういう毎日だったね。その一年は。めちゃめちゃしんどかったから、身体。
でもそれはしんどいけど、動くってとこまではできてたんだよね、逆に言えば。そこまでできなかったから。京子センセイと会うまでは。
いやーでもきついな。いい意味でも悪い意味でも追い込むことが、追い込めるとこまでは行けるようになったんだよね。調子悪いときって追い込めないじゃん。心も身体も。でもそこまではできるようになって。
それで一年くらいそれを繰り返してたら、自分でも、あ、なんかちょっといい感じじゃねーの、ってとこまで来たのよ。身体の具合がさ。
これだったらなんか勝負、一勝負できんじゃないのかなあなんて思うようなコンディションまで上がってきてさ。
でも阿部ちゃんさ、そろそろ入管とかやばいんじゃないの、みたいなことも周りからちらほら言われてたわけ。一年くらいもう繰り返してたから、行って帰って行って帰ってってもう4回やったから。一年でね。
それで5回目入るときに、4回目くらいのときになんかいい感じになってきたなと思って、なんかこう一勝負できないかなと思ってたんだけど、その5回目のときに、行って、やあちょっと入れるかな、どうかな、みたいな感じだったのよ。一年以上やばいよって言われてたから。やばいよやばいよーって言われてたの。
それで入管でスタンプ押されるのわかる?ハンコばーんって押してくれて、いやあ入れたよ、良かったーと思って。ほっとしてて。ふうってなってた、思ってたときに、あの、スーツケースこうグルグル回るじゃん。空港で。
なんか結構清々しい気持ちでスーツケース来るの待ってたらさ、後ろからトントンってされて。空港の関係者の人に。ちょっと裏までご同行お願いできますかって言われてさ。
それでスーツケースの中から、財布の細かいとこまで調査っていうか、調べが入って、やべーと思って。じっと見てたんだけど。
財布からさ、名刺とかまだいっぱい入れてるじゃん。どこで何がどうつながるかわからないからって。名刺とかも入れっぱなしにしちゃってたんだけど。
そのときにレストランで皿洗いしてる店の名刺が出てきちゃったわけ。レストランで仕事するっていうのは、違法行為なわけよ。就労ビザがないからアメリカで稼いじゃいけないってうステータスなのよね。
だけどもう食っていかなきゃいけないから。だからある意味こそこそやってたわけ。それでなんとか飯食って、命をつないでたんだけど、その名刺が出てきちゃって、これなんなんだって言われて。
俺も馬鹿正直なところがあるからその時に、これこの前行ったお店で、ちょっと店長と仲良くなったんで名刺いただいたんです、なんて言えばよかったのよ。
だけど、俺でもそのときふと、いや、これでそう言って、それを疑われて、向こうに電話したら、向こうに電話させるようなことになったら、向こうの店で迷惑かかるんじゃないかなって思っちゃうから、要するに、不法就労の奴らを抱えて経営してる悪徳なレストランだ、みたいになるわけじゃん。
そしたら店閉めなきゃいけなくなるかもしれないじゃん。それで、俺が、正直にげろったわけそこで。いや実はって、こういう経緯でそこで仕事してました。隠れて。
そしたらまた取り調べが一層厳しくなって。もう一つ奥の部屋に連れてかれて。事情聴取が始まって。
それが終わったあとに、俺と同じような感じでしょっぴかれる奴がいっぱいいるわけよね、空港って。
それで、そういう人たちが集まる場所に閉じ込められてっていうか。内側から開かないような部屋ってあるじゃん。そういう部屋に閉じ込められて、テレビだけ置いてあって。
俺もう忘れもしない、そのときちょうど北京オリンピックの開幕日でさ。開会式ちょうどテレビでやってたの。だから2008年8月8日よね。それなんかテレビぼーっと見ながらさ、いやーこれどうなっちゃうのかな、このまま帰されんのかなーと思ってさ。思って部屋いたんだけど。
なんかそのまま一日そこに徹夜させられて、次の日帰されるのかなと思ったら、そこからちょっと出てこいって言われて、出てきたときに、手錠バーンて手錠かけられて、白い布でその手錠を隠されて、その状況で空港をずずずずずっと外まで歩かされて。
よくハリウッド映画とかでも出てくる、鉄格子が、網が張り巡らされてる、車とかイメージできる?あの車に押し込められてさ。手錠もかけられて、もう身動きできないじゃん。
どこ連れてかれるのかなあと思ったらロサンゼルスのダウンタウンにある留置所。留置所に連れていかれて。その自分の部屋に行くまでにさ、すごいだからあのマフィアみたいな悪い奴が、逃げないように足を鉄球でつながれてるわけよ。
もう刑務所なんかでありそうなシーンじゃない。そういうなんかいかついヤツが10人ぐらい並んでるとこを通り過ぎて、オズオズとその自分の部屋に一晩、過ごさなきゃいけない部屋にぶち込まれて。次の日空港に行って。そのまま日本に帰れって言われて、帰ってきたんだけど。
そのときに俺の一番の後悔ね。人生で、51年生きてて人生で一番こうすればよかった、いろいろあるじゃない何個かみんなってさっき言ってたけど、そのうちの一番大きな出来事がそのときあって。
そのヒーラーの京子センセイから、まともな勝負じゃ生き残れないからパフォーマンスしろってずっと言われてたの。
ショッピングモール行ったら、遠いところからもの投げてゴミ箱入れたりとか、本当そんなちょっとしたことでいいから、とにかく目立てと。なんかの形で注目されて、バスケが認められるかわからないみたいな、そういうアドバイスがあって。
30も越えて、今振り返ればやっぱり20代の頃みたいな体力ももうなくなってるときでさ。まあでも俺はなんかそのアドバイスがなかなか聞き入れられなくて、いやーそうは言っても実力の世界だし、まともに勝負しなきゃ無理でしょみたいな感じでずっと思ってたんだけど。だけどそんな先生の言葉も頭に入ってたんだけどさ。
空港で、帰るときに。留置場から空港戻ってきて強制送還されるときって俺が逃げないように、周りにぴたっとついてるわけよ。警察みたいな人が。
それで空港のロビーに行って、その飛行機、搭乗口入って乗るまでいるわけよ。護衛の反対だよね。なんていうんだろうね。
それでこの人たちがいる中で、ロビーって日本行きの飛行機じゃん。全日空だったな、確かね。
だから日本人の人が集まるロビーで待ってたわけ、乗せられ帰らせられるときに。
そのときにそのロビーで、「あれ、阿部さーん」って声かけてくれる日本人の人がいて、すごいタイミングでしょ。
それがトヨタ自動車ってところで俺3年間プレーしてたんだけど、そのときに寮のそばにあるよく通ってた蕎麦屋があって、そこのファミリーがアメリカに家族旅行に来てて、ちょうど帰るときだったの。
俺のことよく知ってる人だったのよ。俺がバスケ選手で、トヨタ自動車で、元日本代表でもやってて、とかそういう話もするじゃん、飯食いながら。結構通ったからね。
そのおばさんファミリーがいて、阿部さんどうしたのって言われてさ。いやーちょっとしょっぴかれて今日、強制送還されるんですなんて言えないじゃん。恥ずかしくて。言えないでしょ。同じタイミングだったら。それで、いやいやいやってなんかお茶濁して、なんか他愛もないこと話して終わったんだけど。
でも振り返ると、なんかあそこは自分のこと知ってくれてる人がいたと。
法律破ってたかもしれないけど、でもどうしてもNBA行きたいって、死ぬ気でやりたいと思ったことのためにやってたわけじゃん。おまけにそうやっていじめで自分の息子亡くしたお母さんが、我が子のように自分のこと後押しして応援してくれてさ。その先生たちの思いとかも背負ってやってきてたわけじゃん。
だから今振り返ると、あそこが唯一のチャンスだったなと思ってて。あのときになんで飛行機に搭乗するの拒否して、一大スピーチでもぶちまけなかったのかなっていうのは、すごい後悔なんだよ。
いやいや待ってくれと。俺実はこういう思いでNBAにチャレンジしてて、そのためになんかもう仕事とかもしなくちゃいけなくて、こういう状況になっちゃったんだけど、っていうことをさ、なんかこう。だって俺のことほら、後押ししてくれる、そばにいたわけじゃん。ロビーに。
だからあの時に、もう暴れまくってでも、日本に帰るの拒否して、いやもうこれだけやってんのに、なんでそんな法律従って日本に帰んなきゃいけないんだみたいなことをさ、なんかそこで大騒ぎすればよかったなって思ってんのよ。
テレビ局とかもしかしたら来てたかもしれないじゃん。変な日本人がバカ騒ぎしてるみたいなさ。でもそれには嘘はないからね。その気持ちでやってたのは嘘はないじゃん。
そういう気持ちでやってたってことを、それをコートでプレーするだけでずっとやってきた男だったから、そのコート外でどういうことを発言したりとかどういうことを行動でやったりとかっていうのはやっぱりあんまりわかってないタイプだったからさ。
だからあの時ああしてたらまた違った展開はあったんだろうなっていうのは、もう13年、14年?経つけど、今でもちょっと頭をよぎるよね。
なんであんなに覚悟して、全部を捨ててまでして、決めたことに対して、なんでそこまで言えなかったのかな、っていうのもある。
ちょっとだからビビっちゃってたのもあるよね。俺刑務所とか入ったことなかったから。やっぱ鉄球につながってるごつい人が10人並んでるとことかさ、自分が留められた部屋も、何もない部屋で、監視カメラもこうやって四隅からついててずっと監視されてて。なんかちょっと、折れたっていうか、ちょっと萎えたって部分もやっぱりあって。
それが一番自分の後悔。だからやっぱり伝えることはちゃんと伝えないと、だめだなーっていうのは、すごいあって。
だからこれ言ってもこの人、今はわかんないだろうな、伝わんないのかなと思っても、そこまで大事なことじゃなくても、だからもう伝えるようにしてる。
そうすると相手がわかるわからないは向こう次第なんだけど、こっち側の後悔になるから。
なんであのとき言わなかったのかなとか。その人にとってそれが一番ベストだと思ってることを言ったりしてあげたりして、わかんなかったらもうしょうがないじゃん。
だけど、言わなきゃ、やらなきゃ、伝わるきっかけもないわけじゃん。
自分に後悔しないためにも、やっぱり言うべきことは言わなきゃいけないんだなっていうのは、一番大きな教訓だったかな。
人生で一番失敗したと思っている話で。まあだから俺も実は法律破って不法就労してアメリカに行ったとかさ、やっぱりなんか、まあ進んでは言いたくないのよね。なんかこう、黒歴史じゃないけどさ。そういう部分でもあるから。
だけどそっちの話がみんなの結構共感を呼んだりするのよね。俺もだからそれはそこまで話するのに抵抗がなくなったから。前はやっぱりちょっと傷が深すぎてさ。そういう話できなかったのよ。だけどまあだから最近はちょっとそういう話もするようにはなってきてるんだけど。まあ今でも苦々しい思い出だね、そこは。
そのあとにアメリカから強制送還くらったから、アメリカに入れないっていう状況が数年続いたわけよね。
ていうか、もう多分一生入れないじゃないって言われてたのよ。アメリカに。
だけどやっぱり気持ちがあるから、トレーニングだけはずっと継続してて、日本でできることやってたんだけど。
まああと東日本大震災とかがあって、そのチャリティーをやることでまたアメリカに入れるきっかけを、ちょっと作ったりとかできてさ。またアメリカに行くことはできたんだけどね。あと数年アメリカで活動して。
あとはでも身体のほうが最後はやっぱりもうちょっとね。音を上げちゃって。難しいかなあと思って帰ってきたのが数年前なんだけど。
だから結構壮絶な人生になっちゃったよね。日本のチーム辞めてからNBAでやりたいと思って動いて。
もう33の時だから、20年近く経つけど。地べた這いずり回って、泥水すすってでもやるみたいな感じで思ってやってたけど、そんな決意をしないとできないような感じで、ずっとやってきてるところかな。
最初にわたし(吉田)とお会いしたときは、どういうタイミングでしたか?
吉田さんと会ったときはまだなんか、本当の引退まで決断ができてなくて。
吉田さんと会って一年後くらいにたぶんちゃんと引退するって決めたと思うんだけど。その頃はまだ方法がないかなと思って自分の中で模索してて。身体の調子戻る可能性あるのかなとか。
なんかそういうことを考えてた時に、吉田さんのメソッド、自分のためだけじゃなくて周りの人の役にも立つなと思って。
それで吉田さんと一回お会いして。どんなものなのかを知ってみたいと思って、仙台に来たときに、お会いさせてもらったんだよね。
その出会いの中で得た気づきとか、一番印象に残ってること何ですか?
身体の奥深さ。
身体の整え方、鍛え方は、今まで自分がやってきたことはベースになっていて間違っていないと思うが、またなんかさらに一歩奥に入ったところ、その領域があると思った。
手のくるくるのやつとか。あれ一つ取っても。こうやって身体整える方法もあるなとか。体感があったからやっぱり。
アメリカに行くって決める、もうちょっと出会いが早かったらまた展開も違ってたかなとは思う。俺が20代30代のときに会っていればその年齢にふさわしいトレーニングをもっとクオリティー高くできたかもとか。
やっぱり関節の摩耗とかはどうしてもある程度まで治ると思うけど完璧には治らない。なきゃいけないものがなかったりするわけだから。カバーしきれない部分も出てきちゃう。年齢的なところもあって。それで引退も決めた。
でもやっぱり一つひとつの動きのクオリティーを上げていったり、30分はプレイできないけど、10分間だけ自分の究極のプレイができたりとか、そういう可能性はあるかなと今でも思っていて。
あとやっぱりその年齢なりの最高の自分でいることも大事かなと最近思っていて。ここ半年とか一年くらい、また、できるだけ体育館行くようにして、身体動かしている。
今の近々のバスケの目標で言えば、シニアリーグ(シニアNBA)を立ち上げて、生涯現役みたいな形でずっとパフォーマンスを、応援するのももちろんするけど、自分がパフォーマンスをしていくという、表現者、プレイヤーの方でもやっていきたいなという気持ちも今すごく強い。そのためにできることを今やっている。
だから吉田さんと一緒にやってきていることや教わったことを人に伝えて広めていくというのはもちろんやるけど、それにプラスして、それがどういうことなんだというのを、自分で表現できるように。表現できるレベルまで持っていきたい。吉田さんのテーマも死ぬときが一番、死ぬときが最高ということだから。
それを自分なりの体現ができたらいいなと思って、今身体を動かして自分と対話を続けている。
阿部さんが生涯現役でご自身の姿・あり方を見せ続けていくことによって、次の世代にどういうものを残したいですか?
どう感じてくれるかは人それぞれ考えや思いが違うから色々あるとは思うが、やっぱり人生の年長者の人たちが背中で見せていくのも大事。そういう一人になれればいいなと思っている。
今の日本は10代20代30代って死因の一番の原因が自殺。自分や社会に対して希望や光が見いだせない。自分で自分の人生をシャットするというか決めている人がすごく多い。
それも個人の心持ちの部分ももちろんあるし、社会のシステムがどうしても弱者に対して厳しいというか。スポットライトを浴びないというか。くさいものには蓋をしろじゃないけど、見て見ぬふりをするような。資本主義の弊害はいろんなところに出てきている。弱肉強食みたいなところがあるから。なんとかみんながうまく丸くおさまる方法はないのかなというのは最近すごく考えている。
京都大学の藤井さんという人がいて、東京ほんまもんTVというテレビ東京でMCの番組を持っている教授。本も、クライテリオンていう、言論で世の中少しでも変えていきたいという人たちが自分の意見を述べるような本の編集をしたりとか。安倍総理がこの前亡くなったけど、そのときの内閣府のアドバイザーをやるような人。その人の意見をちょっと聞いてたんだけど。
その人がいろんなデータを読み込んで、こうしていったらいいということをトップの人にも提言するし、みんなにこういう生き方いいんじゃないかと言うんだけど、具体的に言うと、その人は、消費税を減税したほうがいいと。消費税を凍結したほうがいいと、そういう論調。
それがなんでみんなのためになるかをデータを駆使して理論立てて。みんなに有無を言わさないように論じる。確かにそうだなと思って、それ聞いてるとすごい納得できるんだけど。結局消費税って収入の少ない人ほど負担が大きい。所得税とか法人税とか、法人税で今まで足りなかった分の70何パーセントを消費税で賄われているとか。いろんな経済のからくり、システムをめちゃくちゃわかりやすく伝えてくれる。こうやったら日本うまくいくじゃん、ということをすごく言っている。
なんでそれが上の人に取り入れられないのか。わかってて自分の保身のためにそれを採用できないとか。世の中いいものたくさんあるけどそれが出ることによってみんな幸せになるんだけど、そこで既得権益に関わっていた人たちが食っていけなくなるから新しいものをぶっ潰すみたいな。そういうところが世の中ある。
その人たちも食っていかなきゃいけないからそれはそれでわかる。そういうのもひっくるめて、なんとかうまくまとまる方法はないのかなというのを、最近すごく考えている。こうしたらいいという答えまで行きついてはいないが。なんかあるじゃないかなとか。みんなが生きててよかったっていう社会になってほしいけどね、単純に。自分で人生ここまでだと思って、つらいじゃん。やっぱり。それで亡くなるなんてさ。
だから少しでも社会が良くなるために自分ができることをやっていけたらいいなと思っている。どこまで届くかどこまで広がるかは、やってみないとわからないけど。さっき言った話じゃないけど、伝えないと、言わないと、行動しないと、わかってもらえないから。というところかな。
あとリーダーになるような人は、リーダーだから、利他の心のある人じゃないとダメだと思ってるから、俺もそういう生き方、恩人の先生とか見ていてなりたいなと思うから。でもそうは言っても、俺もエゴが強い人間なんで、自分でわかってるから。利己心vs利他みたいなところはいつも自分の中では戒めているつもり。
そっちのNBA選手になりたいというのはある意味、それをきっかけに、それをもとに社会に影響が及ぼせるような人物になれたらいいなと思ってたけど、そこはやっぱりまずは自分だってところはあった。選手だったから必要だったけど。
少し軸足が変わってきてるのかなというのは少しある。自分のこともすごい大事。それ以上に自分以外の人、何かのために誰かのためにというのはすごいいつも自分に言い聞かせて動くようにはしてるかな。
バスケットって5人だから。コートに出てるの。一人の役割がすごく大きい。一人の選手がすごい活躍してゲームに勝ったりとか。スーパースターが生まれやすい競技かなって思ってる。でもこの人は実際、自分のプレーがすごいだけじゃ周りを導けない。周りの選手の良さも引き出して、初めてチームとしてポテンシャルを発揮できて、全体が良くなるんだけど。だから自分という柱とチームという柱の二本立てなんだよね、バスケットって。
それがこんな低いところで争っててもしょうがない。自分の柱だけ高くてもダメだしこう(チームの柱が高い)でもダメだし。高いところでこうずっと切磋琢磨して。柱を立てていかなきゃいけないから。それがだから、自分とチームという柱だけじゃなくて、チームという柱が今度、地域だったり社会だったり学校、日本、世界だったり、スケールがどんどん大きくなる。
結局自分と社会、自分と他者、両方大事。そこのバランスをうまく取って生きていけるような選手になってほしいなと思う。バスケコーチしてるときは思う。
大体ちょこっとうまくなると鼻っぱしの強い選手が多くなるから。自分もそうだったけど。天狗の選手が多くなるからやっぱり。それをうまく折るところは折って、または折らなくてもうまくなだめて、こっち(他者)も大事なんだよっていうことをうまく教えていくのがバスケット、スポーツの、ツールとしての一つの役割だと思うから。そういうのを大事にはしてやっていきたいなと思っている。
もう少し若い人たちが希望、光が見えるような社会に少しでもなるように動けたらいいなと思っている。
あと若い人たちだけじゃなく年配の人たちがイキイキ。年配の人たちがみんなグネッとしてるから、医療費がどうだこうだとか言われるわけじゃない。健康寿命をのばして、みんな最後まで自分の足で歩いたり、健康状態を自分で保っていけるような、そういう社会でもあってほしいなと思う。
そのために吉田さんのメソッドが役に立つと思ってるから。シャツ一つとっても。社会がよりよくなるための一つのツールとしてみんなに知ってもらいたいしみんなに使ってもらいたいと思ってます。