私は風邪を引いた時、薬を使わずに早く治せることは素晴らしい能力だと思っていました。
でもそれって、社会生活としては良くても、身体にとっては??
良かれと思ってやっていたことが、
身体にとってはどうなんだろうと考えるきっかけになったお話です。
トヨダ的早く治すための方法
①ゾクゾクが止むまで積極的に温める
②暑いと感じたり、汗をかき始めたら温めるのをやめる
③水分を積極的にとって、汗をかく
多少苦しくても発汗するまで発熱を手伝って、その後解熱のタイミングに入ったら、身体に任せる。という方法です。
この日もその準備に入ろうと思ったのですが、
ふと、「身体はそうされたいのかな?」と感じました。
仮に36度から38度まで上がるとして、
36度から36.1度に上がる過程には、身体にとって0.1度上げる理由と、その為のちょうど良いスピードとタイミングがあるはずです。
そこを私が外側から急速に上げてしまったら、やりたいことが出来ないかも?
その結果、「熱の上がりすぎ」にも同時に対応する必要が出るんじゃないか?
と気づきました。
案の定私のやり方は、一晩で熱が下がっても、多少の苦しさや、翌朝の気だるさを伴うものでした。身体と共に戦った証の様な(^^;)
それは、私のアプローチに対する身体からの「やりすぎだよ〜」というサインを無視した結果だったと思います。
ではなぜその身体からのサインを無視してしまったか。
それは、翌朝までの解熱を目的とし、身体の言い分は聞かず、その結果を強制していたから。
気づいて愕然としました。身体のために良かれと思ってしていましたから。
でも結局、「早く完治」という理想を押し付けていただけなんですよね。
そこに気づいて「発汗するまで温める」ではなく、「感じ取れた感覚に対応し続ける」という関わり方を見つけました。
「暑い」という温め過ぎのサインを感じたら毛布を減らし、「寒さ」を感じたら布団を増やし、眠くなったら、身体に任せて寝る。
身体の反応をもとに、ちょっと気になったら何かを変えてみる。
解熱を目的とした時間は、身体とのコミュニケーションの時間に変わりました。
すると、翌朝の気だるい戦った証はなく、発熱前よりもひと回り丈夫になった、何とも言えない自信を感じました。
私の中で、発熱は非日常で早く治すべきものという無自覚の思い込みからの行動だった事に気づきました。
身体からしたらいつもと変わらず、「状況に応じて適切に対応している」だけなんですよね。
こうやって日常の中に、思いもしなかった可能性を見つけられるようになることも、身体コミュニケーションの醍醐味だと感じています。