みなさんこんにちは。
今回は、さまざまな経験を経た今。
なぜ私が「自然な身体の働き」に着地したのか?その源泉とは?
という部分をお話しさせていただきます。
私も、絶対にいなくなる。
もう何年も前になるのですが、とある講座のワークで “もうこの世にはいない自分” という視点からメッセージを書く経験を頂きました。
あらゆるものの見え方が変わり、今もたくさんの気づきのきっかけになっています。
それだけ自分の中でも、生きることが普通で、死が特別なものになってしまっているという事ですね。
そのメッセージは、
その時に浮かぶ 特定の“誰か”へ向けて送るという設定なのですが、
私は誰かが浮かばず
「未来を生きる生命」へ宛てたものとなりました。
自分にとって大切な存在
その時に綴られたのは、この世界のあらゆる美しさでした。
この身体との限られた時間で、
その風景をたくさん見てほしい。
どうか世界の美しさを余すところなく身体で感じてほしい
というものでした。
なぜ、それが自分の中の大切なテーマとなったのか?
そこには原体験と呼べる幼少期の風景がありました。
大自然と祖父母の存在
私のふるさとは、
神奈川県の山奥で、水と空気がとてもきれいなで豊かな場所です。
3世代家族で、
両親共に働きに出てくれていたので、日中の私の面倒を見てくれたのは祖父母でした。
優しくもどこかに計り知れない深さをもつ祖父は、必要なものは何でも山から創り出せる、とても不思議な方でした。
幼い私は、そんな祖父が大好きで、山・川・畑・薪小屋・炭小屋と、よく後を追いかけていた記憶があります。
その時の風景や感覚が、時折身体に浮かぶびます。
高く見上げた木々と木もれ日。
目を凝らした地面の近さ。
心地よい冷たさと魚のくすぐったさを感じる川の流れ。
もし落ちたら…と震えた山道。
夏の暑さに負けない野菜を山の水でさらした美味しさ。
そんな風景がここ最近、
更に鮮明になって、原動力となっている気がします。
身体と生きる喜び
私が人生で見つけていきたいものは
「この世界に生きる喜び」だと思います。
そして、この感動をキャッチしてくれるのは身体です。
だから身体なんだと思います。
この世界は限りなく美しくて、
それは壮大な大自然だけでなく、ありふれた日常の1コマ、仲間との時間にたくさん散りばめられています。
それを感じられる自分かどうか。
多分それ次第なんだと思います。
自分のモード1つで、聞こえない音が出ます。見えないものもあります。
小さかったあの頃の感覚は、ただ懐かしむだけのものではなくて
今ここにあるこの身体とも、感じられるものです。
だから、からだ。からだ、だから。
お読みいただきありがとうございました。
豊田でした^^
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